「しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)」 映画メル・ギブソンの「パッション」に対しての抗議は、暴力シーンがむごすぎることだった。実際にイエスが受けた刑は、あの映画に比べものにならない。聖書では、十字架上のイエスの顔だちはそこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた、とある。 十字架上のイエスは、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。イエスはさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人 で病を知っていた。ゼリー状に顔が爛れ変形するまで鞭うたれた。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)鍬で耕すようにイエスの背中には鞭が食い込み、すべての骨がむき出しになった。 ローマ兵たちがイエスを縛り、鞭打ち台に引きずられていった時、イエスは何を思っていたのか?イエスの思いはあなたであり、私のこと。「すべての呪いをわたしが受ける!!!」 骨がむき出しになるまで受けたムチ打ちの意味は、私たちの病をもイエスの身に受けたと、聖書はある。イエスへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエスの打ち傷によって、私たちはいやされた。 この真理を改めて心深 くに知った時、イエスの故に、癒しは私たちの特権であることを実感する。100万円の借金に対して、100億円支払ってくれたみたいに、イエスが支払った代価は、過剰に支払っているのが事実。 どうやって、癒しを受ける?自分に対してイエスがした事の意味を知って、信じて、口で告白していく。自分が何かするDoではなく、もうすでにイエスがしたDone!信じて告白していく。信じるとは、この真理に同意して告白していく。
何年間も左脚の付け根に痛みを感じていた。数か月前は、痛みがピークで歩くこともたいへんだった。イエスが負った傷が私の脚のためと信じ続けた。告白し続けた。昨日気づいたが、全然痛みがない。「え~っ、うっそ~!!!」と、一瞬思った。信じてなかったの????
信じて、告白しているつもりでいても、実際にその通りになると、アメイジング!だから、完璧に信じることなんか無理!ただ、この真理に同意して告白しよ。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(癒される、祝福される)のです。(ローマ10:10)