興味深いことに、ヨハネ11章で2人の姉妹、マルタとマリアがイエスさまに対して同じせりふ「主よ。もしここにいてくださたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」を、21節と32節でそれぞれ言っています。兄弟のラザロを死からよみがえらせる奇跡の扉を開けたのはなんとマリアだったのです。
何が双方に違いがあったのでしょうか。
マリアは、イエスに会うやいなや、足もとにひれ伏したのです。儀式的なものではありません。彼女のハートが姿勢に現れたのです。真理をハートでしっかりわかっていたのです。
一方マルタは真理を知識として頭で理解していたにすぎません。情報として学問的理解では、奇跡をもたらすことはできないのです。
あなたがたは真理を知り(ハートで体験する)、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)
真理を情報として取り入れていくだけでなく、ハートで真理に満ちて体験し続けるためにチャーチがあるのです。なぜなら、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところだからです。(エペソ1:23)
チャーチはガソリンスタンドみたいで、神さまの計画に歩み進むためのガソリンである真理を頭だけでなく、心にまで給油するところなのです。ハレルヤ!