信仰は誰もがもっている。何に信仰を置いているかは、人それぞれ。
聖書のことばに信仰置くって、わかりやすく言うと、イエスが十字架上でしてくれた完璧な御業に対して「信頼してま~す。アーメン」と応答すること。
ある人は、医師に信仰っていうか、信頼を置いているかもしれない。その医師のスキルと知識に応じていること。その医師に対して「あなたを名医と認めますよ。」って言っていること。
医師にある意味で信頼を置くことは大切だろうが、限界ある人間のスキルに100パーセントの信頼で応答することは無理。だから、安心感は保証されない。絶対に大丈夫っての確信はもてない。
人間の手で造られた偶像にも、信頼置けない。でも、私たち人間を造られた神さまに信頼を置きたい。私たちに存在する悪を滅ぼすために、呪いの象徴である十字架にまで行かれ神。身代わりに病の呪いとなって、貧困の呪いとなって、罪の呪いとなるために、十字架にまで行かれた。私たちにご自分のすべて良きもの与えるために、復活された。
この神に信頼を置くとき、決して落胆させられることはない。癌が癒され、多額の借金がクリアにされ、成績ビリがトップクラスに、離婚から祝福に満ちた復縁に。。。。
こんな数えきれない祝福は偶然のものでも、人間の努力の結果でもない。ただ単にイエスが十字架でしてくれた完璧な御業に、信頼を置き、自分のためと同意し応答した結果なのです。
信仰がなくては、要するに、イエスの十字架を自分のこととして応答することなしでは、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなけれなならないのです。
Jesus loves you so much.